ストーリー

Story

森の中の老人ホーム お年寄り達は自らの被爆体験を演じていた

国内最大の被爆高齢者のための特別養護老人ホーム「恵の丘長崎原爆ホーム」は深い森のなかにある。
被爆者は皆、高齢で、それぞれが被爆の記憶を秘めて、残された命の時間と向き合っている。

本多シズ子さん(76歳)は生まれた時から両親の記憶はなく、爆心地から1.8キロの地点にある児童養護施設で11歳の時、被爆した。原爆症で左目は見えず、両方の耳も補聴器なしでは聞こえない。本多さんは、未明に起き、施設に配達されるすべての新聞を施設内に配って回る。施設に入所以来、欠かしたことのない日課だ。そして、カトリックの祈りが本多さんを支えている。

日々、穏やかに原爆ホームで生活を営む被爆者たちが、激しく感情を露わにする日が、年に数度、訪れる。修学旅行で、原爆ホームを訪れる小中高生のために「被爆劇」を上演する時だ。秋のある日、京都の女子高校生が修学旅行で原爆ホームを訪れた。上演中の被爆劇は、本多シズ子さんの実体験を基に構成されたもの。主演は、本多さん自らが演じる。舞台に登場するお年寄りたちも全員、被爆者だ。

8月9日、長崎の街は祈りの色に染まる。祈ることで、被爆の苦しみや哀しみをのりこえようとするように。女生徒213名が原爆の犠牲となった純心女子学園、そして原爆ホームでも慰霊祭が行われる。そして、今なお長崎で歌いつがれているのが、聖歌「み母マリア」だ。

日本におけるカトリックの聖地、浦上天主堂は爆心地から約0.5キロの地点にある。
原爆投下によって、当時東洋一と謳われた天主堂は崩壊し、多数の信者や聖職者が犠牲となった。
被爆から数ヶ月後、瓦礫の中から焼失したと思われていた木製のマリア像が発見される。
焼け焦げ、半壊されたマリア像はやがて「被爆マリア」と呼ばれ、復活と再生と平和の象徴となる。

原爆ホームでは、入居者(被爆高齢者)がそれぞれ被爆の記憶を忘れないように、また原爆の悲惨さを後世に伝える目的で、職員がそれぞれの利用者とともに被爆を受けた場所に案内し、聞き取り調査を行っている。
本多さんは被爆するまで過ごした児童養護施設の仲間や親代わりだったシスター、カトリック教徒が眠る墓地を年に一度、訪れる。

爆心地から約1キロの地点にある長崎大学の構内の一角に、多数の被爆者が眠る場所がある。
米軍の手により、原爆投下直後より調査収集された急性被爆症患者の病理標本だ。
長崎大学大学院原爆後障害医療研究施設の助教授、七條和子さんは、被爆者の病理標本から「内部被爆の人体に及ぼす影響」を調べている。原爆投下から60年以上たった今でも内部被爆により被爆者の病理標本の細胞で放射線を出し続けている事実は衝撃的だ。

長崎大学病院の医師、長井一浩さんは、原爆ホームで主治医を務めながら、長崎大学の准教授、鈴木啓司さんとともに、被爆者の血液から造血幹細胞を取り出し、被爆により傷ついた遺伝子が人体に与える影響を研究している。

原爆投下直後、被爆者が水を求めて次々と飛び込み、死体が累々と連なる浦上川。その様子を間近でつぶさに見た幼い男の子がいた。
長崎原爆病院の院長、朝長万左男さん(67歳)で、2歳の時、母親とともに被爆。
高校時代、同級生が次々と白血病を発症するのを見て、医学の道を志し、設立当初から恵の丘長崎原爆ホームの主治医も務めるなど、被爆者医療に取り組んできた。被爆すると遺伝子に傷がつき、その傷が生涯にわたってがんを発症する危険性がある、と医療の現場から警告を発する。

「赤い背中の被爆者」と呼ばれる谷口稜曄(すみてる)さん(81歳)は、16歳の時、爆心地から1.8キロの地点で被爆し、背中いちめんに大やけどを負い、生死の境をさまよった。
米国戦略爆撃調査団が撮影した、当時の谷口少年の治療風景の痛ましい映像と写真が今も残されている。
今では胸は骨まで腐り、肺を充分にふくらませることができず、大きな声を出すことができない。
「核と人類は共存出来ない。被爆者は、全身に原爆の呪うべきつめ跡を抱えたまま、苦しみに耐えている。
私の姿を見てしまったあなたたちは、どうか目をそらさないでほしい」語り部を続ける谷口さんの願いだ。

一台のピアノが爆心地近くの建物の地下室で眠っている。無数のガラスの破片が突き刺さった被爆を受けたピアノ。
二度と、音楽を奏でることのないピアノ。しかし、私たちが忘れてはならないピアノだ。

村上ハルエさん(93歳)は、29歳の時、爆心地から約1.8キロの地点で被爆、原爆症により妹と母と父を亡くした。
少女時代、浦上教会の聖歌隊で歌っていたハルエさん、今も亡くなった友達や仲間のために祈り続ける。

初夏のある日、原爆ホームを訪れた熊本の小学生のために、ハルエさんは初めて被爆劇に出演した。被爆劇を観て涙ぐむ小学生たち。

「二度と、戦争は起って欲しくない、原爆の悲劇も繰り返して欲しくない」

そう語る山口ソイ子さん(91歳)は27歳の時、爆心地から約1.1キロの地点で被爆し、両目の視力を完全に失った。
その後、親戚の男性と見合い結婚をし、2人の子供に恵まれた。
今、家族と離れて原爆ホームで暮らす心の慰めは、好きな歌をうたうこと。

原爆ホームの本多シズ子さんは77歳の誕生日を迎えた。
家族のいない本多さんが姉妹のように慕うシスターや友達が誕生祝いに訪れた。

2010年12月24日、長崎はこの日、被爆から65回目のクリスマス・イブを迎えた。
原爆ホームの施設長でシスターの赤窄(あかさこ)ゆみ子さんは長年、被爆高齢者とともに生きてきた。
「心の痛み、からだの傷、65年たってもまだ癒えない、癒されていない深い傷として残っている。苦しみの中で誰かにすがりたい、私たちも一緒にその苦しみをわかちあって一緒に乗り越えよう。被爆者の方々の生活そのものが祈りと思う」

2011年、長崎。
今日も、この街のどこかで、被爆によって亡くなった犠牲者を悼み、平和への祈りを込めて、聖歌「み母マリア」の歌声が響く。
戦争とも、原爆とも無縁の、新しい未来と平和のために。

主な出演者

本多シズ子さん(撮影当時76歳)
村上ハルエさん(撮影当時93歳)

生まれた時から両親の記憶はなく、爆心地から1.8キロの地点にある児童養護施設で11歳の時、被爆。原爆症で左目は見えず、両方の耳も補聴器なしでは聞こえない。熱心なカトリック信徒である本多さんの一日は祈りに始まり、祈りに終わる。被爆劇は本多さんの実体験を基にしている。

29歳の時、爆心地から1.8キロの地点で被爆、原爆症により妹と母と父を亡くした。少女時代、浦上教会の聖歌隊で歌っていたが、今も亡くなった友達や仲間のために祈り続ける。被爆劇にも出演。


山口ソイ子さん(撮影当時91歳)
谷口稜曄(すみてる)さん(撮影当時81歳)

27歳の時、爆心地から1.1キロの地点で被爆し、両目の視力を完全に失った。その後、親戚の男性と見合い結婚をし、2人の子供に恵まれた。家族と離れて暮す心の慰めは、カラオケで好きな歌をうたうこと。十八番は「星影のワルツ」。

16歳の時、爆心地から1.8キロの地点で郵便配達の仕事中に被爆し、背中を激しく焼かれ、生死の境をさまよった。奇跡的に一命をとりとめるが、背中の傷は完治せず、「赤い背中の被爆者」と呼ばれる。米軍が撮影した被爆直後の治療風景の痛ましい映像と写真が残されている。被爆当時、胸は骨まで腐り、肺を充分にふくらませることができず、今も大きな声を出すことができない。今も毎晩、妻の榮子さんが背中に軟膏を塗るのが日課だ。国内外で被爆者の実態と核兵器廃絶を訴える語り部の活動をボランティアで行う。2010年、国連本部で行われた核拡散防止条約(NPT)再検討会議にて、被爆者を代表して自身の被爆体験を語るなど国際的にも知られている。

朝長万左男さん(撮影当時67歳)

2歳の時、母親とともに被爆。高校時代、同級生が次々と白血病を発症するのを見て、医学の道を志し、長年、被爆者医療に取り組んできた。「被爆すると遺伝子に傷がつき、その傷が生涯にわたってがんを発症する危険性がある」と指摘。恵の丘長崎原爆ホームの創設以来の主治医であり、現在は、日本赤十字社長崎原爆病院の院長、長崎大学核兵器廃絶研究センター客員教授。「核兵器は非人道性がきわまる悪魔の兵器」と自らの体験を踏まえ、被爆医療現場から世界に警告を発し続けている。